M-1と私の10年間(草創期)

帰省に向けて、HDDの容量を増やすことに尽力したここ数日、とりあえず理論上はギリギリ足りるはずの容量をキープすることができました。母親へのお土産の向井おさむ出演時のスマスマのDVDも持ったし、いざ奈良へ。
さて、M-1と私の10年間という、世の中の誰も興味ないやろ〜という記事を書きます。理由はM-1が毎年楽しかったから。
■2001年12月25日
記念すべき第一回大会。当時、受験生(しかも若干ノイローゼ気味)だった私。まだ奈良に住んでいた頃です。年末なんて受験生にとってはめちゃめちゃ大事な時期で、毎日夕食後はすぐに自室に戻って勉強していました。この日、たまたま夕食時についていたテレビで、M-1が始まったのです。漫才といえば、関西地方では土日の午後に数時間ぶっ通しで見るのが通例。だからなんでゴールデンタイムに?と不思議に思ったのを覚えています。不思議に思いつつも、漫才大好きな私はもちろん見入るわけです。
今見返したわけではないので、ざっくりとなのですが、印象に残っているのがハリガネロックチュートリアルなのです。当時、いわゆるbase勢が好きだった私ですが、なぜかチュートリアルにはあまり注目していなかったのです。ですが、この日のチュートリアルはすごく心に残っているのです。まっちゃんが50点をつけたり、のちのちチュートのお2人が「今までで一番つらかった」みたいに語ったりしているのですが、私としてはとてもおもしろかったんです。受験生のすさんだ心を癒してくれたんです。ももっち・・・。雉コロコロのやつ・・・。
あと、中川家の評判がよいこともよくわかっていたのですが、私としては断然ハリガネロック派だったんです。今でもハリガネはとても好きな漫才師さんですが、この頃のロックな感じと上手さと勢いは凄かった気がします。
あとは伝説のおぎやはぎですかね。この頃、ただの奈良の高校生だった私の感想ですが、おぎやはぎの漫才はとてもとても独特に見えました。関西に住んでいると上方漫才は毎週のようにテレビでやっているのですが、それに慣れすぎるとおぎやはぎの漫才が独特に見えすぎて、違和感みたいに思えてしまって笑えなくなっていたのかもしれません。当時は東西の違いも今よりずっと大きく思えた気がします。やっぱりこの10年の変遷は大きいのだなぁとあらためて思います。
そして麒麟。当時ほんっとに無名だった彼ら。最初漫才が始まったときは、ヘタやな〜と見てられないような気持ちで見ていたのですが、その部分すべてがフリだったのですよね。先日の記事でも書きましたが、天パが縮む〜のくだりが大好きで、すごくすごく笑いました。高得点なのも頷ける。
それから、覚えているのはますだおかだのことです。松竹所属のますおかがNGKの舞台に立ったというだけでニュースになったのはこの年かこの翌年か。当時は吉本と松竹のアレコレが色濃かった時代なんですよね。
そんなわけで、結局最後までこの番組を見通したのでした。何よりもチュートに癒された高3のクリスマスでした。
■2002年12月29日
第2回大会です。この年、私は無事に大学に進学し、上京しました。東京に来て驚いたのは、周りが誰もお笑いの話なんてしないこと。当時はお笑いブームが始まる直前くらいで、まだネタ番組はきっとオンバトくらいしかなかったのではないかな。私は、すっかり好きになったチュートリアルを見るチャンスがオンバトに出るときくらいだったので、とりあえずオンバトチェックだけを欠かしませんでした。なのにそこそこの確率でオフエアになるんですもん。もっとがんばってよーチュートリアルーと思っていた頃です。ちなみに、勇気を出してお笑いの話を周りに振ってみると、「関西の人ってほんとにお笑い見るんだねー」みたいなリアクションだったことが思い出されます。
そんな年の年末、M-1が近づくと、なぜか私はますだおかだにドはまりしたのです。きっかけはよく覚えてないのですが、岡田さんがV6の岡田くんに似ていたことも要因のひとつだったような(当時ほんとに似ていたんですよ。親戚説とか出るくらい)。所詮そんなもんですきっかけなんて。この頃よく会っていた友人に数年前再会したとき、「ますだおかだ好きだったよねー」と唐突に言われました。それくらい急激にますおかブームがやってきた頃でした。
で、肝心のM-1の日。この日は私のバイト納めの日で、そのまま夜行バスで奈良に帰る日でした。でもM-1は絶対見たい。そんなわけで家族に録画を依頼し、私が見終わるまで絶対に結果を言わないでと緘口令をしきました。なのに、実家に帰るなり家族全員がにやにやしながら「飯・・・なぁ」「やっぱり笑い飯・・・なぁ」と口々に言うのです。ますおかブーム真っ只中の私は、ますおかが獲るかどうかだけに興味があったので、他の出演者もまったく知らず、「笑い飯」の意味がまったくわかりませんでした。
そして見始めたM-1笑い飯ってコンビ名やったんか〜変な名前!ってかなにこの人ら、意味わからん〜!と。でも、そりゃあ家族全員の心を掴むよなぁ・・・と納得したものです。
ちなみにますおかは無事に優勝し、私のますおかブームも一段と増すのでした。
■2003年12月28日
第3回大会。この年あたりから私のM-1への思いも重くなっていきます。世間的にもきっとお笑いブームが始まりだした頃なのかもしれません。確かこの年もリアルタイムで見られなくて、家族に録画を頼んだような。それでも自分でも見たいから、東京の家でも録画をしておきました。
やっぱりこの年はなんといってもフットを応援していました。大好きなbase勢で一番の実力者。行ってくれるだろう、と。
ただ、この年は笑い飯のぱーぱーぱー。いわゆる「伝説」の奈良歴史民俗博物館です。先日の記事にも書きましたが、奈良県民として、そして民俗博物館に遠足で行った身としては、すんごい内輪ネタを大々的にされているようなおもしろさ。「ええ土」っていうフレーズも田舎丸出しで(うちは農家なので、普通に「ええ土」というフレーズが家の中で飛び交っています)むずがゆくおもしろい。このときのいーきーおーいーー((C)麒麟の何年目かの最終決戦)はすごかった。J文式土器とかも好きでした。
そしてフット。完全に笑い飯の空気の中のフットのかっこよさったら。でもやっぱり一番印象に残っているのはSMタクシーのネタのオチのつっこみの後藤くんのかみっぷりですよね。見ていて驚愕でした。ご、ご、ご、ごとうくん・・・!!みたいな。

こんな感じのM-1草創期。私は、まだ当日チェックするだけでした。この時点で優勝していたのは、関西でも賞レースをがっつり取りまくっていた実力派大阪出身コンビ。まだ西高東低で、漫才=関西という図式があった頃かと思います。ここからどんどん注目度を上げていくんですよね。